SAI-Lab Blog

「ヒトとAIの共生」がミッションの企業、SAI-Lab株式会社のブログです。

読書録: サピエンス全史

「サピエンス全史」を2回通読しました。
個人的に2016年一番の名著だったので、興味深かった内容を一部引用し、コメントしてみます。


ハンムラビもアメリカの建国の父たちも、現実は平等あるいはヒエラルキーのような、普遍的で永遠の正義の原理に支配されていると想像した。だが、そのような普遍的原理が存在するのは、サピエンスの豊かな想像や、彼らが創作して語り合う神話の中だけなのだ。これらの原理には、何ら客観的な正当性はない。
我々が普段から共有している人権や自由の概念さえも、実は人の想像力に基づく神話に過ぎません。何ら事実に基づかない、創作なのです。
近代後期まで、人類の九割以上は農耕民で、毎朝起きると額に汗して畑を耕していた。彼らの生み出した余剰分を、王や政府の役人、兵士、聖職者、芸術家、思索家といった少数のエリート層が食べて生きており、歴史書を埋めるのは彼らだった。歴史とは、ごくわずかの人の営みであり、残りの人々はすべて、畑を耕し、水桶を運んでいた。
人類の歴史の大半において、人類の大半は食糧生産に従事しており、僅かな余剰分が特権階級を養っていました。一般に言う世界史とは、この僅かなエリート層の活動のことを意味してきました。
犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。
言い得て妙だと思いました。穀物は、安定したカロリーを人類に供給する代わりに、辛い労働、搾取、栄養の偏りなどのリスクを強いるようになりました。穀物は、人類をうまく利用することで、個体数という意味ではかつてない繁栄を謳歌しています。
ホモ属は食物連鎖の中ほどに位置を占め、ごく最近までそこにしっかりと収まっていた。人類は数百万年にわたって、小さな生き物を狩り、採集できるものは何でも採集する一方、大きな捕食者に追われてきた。四〇万年前になってようやく、人類のいくつかの種が日常的に大きな獲物を狩り始め、ホモ・サピエンスの台頭に伴い、過去一〇万年間に初めて、人類は食物連鎖の頂点へと飛躍したのだった。
人類が食物連鎖の頂点に立ったのは、人類の歴史の中でもつい最近でしかないようです。人類が他の動物種と比較した場合の特殊性も際立っていますが、人類の歴史の中でもここ10万年、そして文明がはじまったここ1万年はかなり特殊なようです。
ホモ・サピエンスでは、脳は体重の二~三パーセントを占めるだけだが、持ち主がじっとしているときには、体の消費エネルギーの二五パーセントを使う。これとは対照的に、ヒト以外の霊長類の脳は、安静時には体の消費エネルギーの八パーセントしか必要としない。
人類が、いかに知性に特化した生き物か、という一つの証拠ですね。
一〇万年前の地球には、少なくとも六つの異なるヒトの種が暮らしていた。複数の種が存在した過去ではなく、私たちしかいない現在が特異なのであり、ことによると、私たちが犯した罪の証なのかもしれない。
キツネやタヌキに複数種が存在するように、人類にも複数種が存在した時代があります。サピエンスにより、生活圏が被る他の種が駆逐されてしまったためかもしれません。
人類の知識量を増大させる自分の人生には意義があると言う科学者も、祖国を守るために戦う自分の人生には意義があると断言する兵士も、新たに会社を設立することに人生の意義を見出す起業家も、聖書を読んだり、十字軍に参加したり、新たな大聖堂を建造したりすることに人生の意義を見つけていた中世の人々に劣らず、妄想に取り憑かれているのだ。
個人の幸福は、ある種の妄想の追求と密接に関わっているようです。
世界には一五億頭の畜牛がいるのに対して、キリンは八万頭ほどだ。四億頭の飼い犬に対して、オオカミは二〇万頭しかいない。チンパンジーがわずか二五万頭であるのに対して、ヒトは何十億人にものぼる。人類はまさに世界を征服したのだ。
人類、およびその家畜と他の大型哺乳類の個体数を比較してみると、人類が突出していることは一目瞭然です。人類によりそれまでの生態系が大きく歪められたのは、疑いようがないかと思います。
一八世紀半ば、ベンジャミン・フランクリンは科学史でもとりわけ有名な実験を行なった。雷雨のときに凧を揚げ、稲妻はただの電流にすぎないという仮説を試したのだ。フランクリンは、このときの経験的観察結果と、電気エネルギーの特性についての知識を組み合わせ、避雷針を発明して神々の武装を解除することができた。
 神々の武装とは人類の無知のことです。科学革命とは、人類が人類自身の無知を認め、新しい知識を獲得することによりそれまで解決不可能であった問題を解決することとされています。ベンジャミン・フランクリンの例は、雷がただの電流であることを証明し、それまでの人類の無知さを証明してしまった一つの例かと思います。
それでは私たちはなぜ歴史を研究するのか? 物理学や経済学とは違い、歴史は正確な予想をするための手段ではない。歴史を研究するのは、未来を知るためではなく、視野を拡げ、現在の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。
歴史を学ぶ意義は、まさにこれかと思います。40年前に今のインターネットやスマートフォンの隆盛が予想できなかったように、未来は我々の想像力を超えたものになるでしょう。人類至上最大の速度で変化し続ける現在の世界の未来に対応するためには、歴史を学ぶことで視野狭窄を予防することがとても大事に思えます。
サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福
サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福